第62話   生類憐みの令と釣   平成15年11月26日  

1687年から1709年まで続いた「生類憐みの令」は跡継に恵まれなかった将軍徳川綱吉を心配した生母桂昌院が、彼女の寵愛を受けていた江戸は護持院の隆光の勧めによって制定なされたものである。何時の世の法令でもそうであるが、当初はそんなに厳しいものではなかった。それが年を経る毎に回りの官僚が拡大解釈し、生きとし生けるものすべてを対象にしたすべての殺生を禁ずるという厳しいものへと変わって行った。

動物を虐待した者には極刑(動物を殺した罪で最高は死刑)をも辞さないという、日本国中を巻き込んで人々を苦しめた悪法となったと云われているが、将軍が住む関東を中心にしたもので遠く離れた遠隔地ではそんなに厳しい物ではなかったらしい。事実庄内では殿様の釣の記録が存在している。その事は「殿様の釣W」で書くことにする。

綱吉の治世の末期には魚を取ることを生業とする漁師、動物を取る猟師なども生計の維持が出来なくなったと云う。極端な例が江戸城中で蚊が頬に止まったのを叩いて殺したといってお役御免になったり、狼、野犬が人畜に悪さしても誰も止められないと云った状況までに至っている。特に綱吉の生まれ年の犬を殺せば極刑を与えられるとあっては、行き過ぎの感は免れない。法令そのものには、動物保護の意味(弱者救済)があり悪い事はないのであるが、行き過ぎた法令の解釈から次から次へと法令の追加は、其の都度厳しい物となって行き庶民を困らせたと云われている。

そんな中江戸に住む釣好き者達は釣が出来ずに非常に困ったという。当時の庶民たちから道楽と云われた「釣」は、皆が出来るというものではなかったが、それは釣を道楽と云い、釣の面白さを知らない者が云っていた事である。米や味噌等の生活必需品とは違い生活する上でなくてはならぬものではないが、釣り好きの者とっては出来ないとなると無性にやりたくなるのも人の常である。

法令が作られた当初はお上の目を盗んでは、釣に出かけた者も少なからず居たとの事である。それがだんだん厳しくなってきた綱吉治世の末期には、命を掛けてまで釣に行ったという命知らずも現れた。そうして牢に繋がれたが、取調べ中に綱吉が死んで危うく助かった者まで出て来たと云う。命がけの釣は釣をしない者から見れば釣は単なる道楽であっても、それは釣を知らぬもの者の考えである。真の道楽者とは道楽を道楽とも思わない者が道楽者であり、その際たる者が禁を犯してまで釣に行った「我が愛する釣師」達であったのである。